パプアニューギニア対豪戦日本軍は、ニューギニア島のソロモン海側から最高峰4,000メートルのオーウェンスタンレー山脈を越えて、ポートモレスビーまで直線距離にして220キロを陸路侵攻するという「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を立案した。5月18日、ソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面を担当する戦略兵団として第17軍が編成され南海支隊を指揮下に置いた。第17軍司令官百武晴吉中将は初め南海支隊に対して「リ号研究」と称した偵察を命じたが、大本営参謀辻政信中佐は作戦の即時実行を指示、この影響で第17軍はろくな事前調査もないまま7月18日にポートモレスビー攻略命令を発した。 7月21日、先遣隊の独立工兵第15連隊がギルワに上陸し、8月18日に南海支隊主力も上陸した。南海支隊はオーウェンスタンレー山脈の標高2,000メートル以上の峠を越え、9月16日にポートモレスビーの灯を遠望できる直線距離50キロのイオリバイワまで進撃した。しかしそこで食糧弾薬の補給が途絶えた。馬匹や人力による搬送はすでに地形的に限界を超えていた。またアメリカ軍のガダルカナル島上陸によりソロモン諸島の戦いが激化、作戦機が引き抜かれて制空権を失い空輸による補給も不可能だった。南海支隊には後退命令が出され、将兵は飢餓とマラリアに苦しみながら元来た山道を引き返した。部隊は壊滅的な損害を受けた。このフィルムに映っている日本兵の一体何人が生還できたのだろうか?ニューギニアの死亡率が極めて高いからだ。ある部隊の死亡率はなんと97%にのぼるという。