20240623の一周年追悼ミサ(喪主挨拶)★昨年(2023年)6月26日に帰天した家内のSophia Eirene田淵晴子(享年50歳)の1周年追悼ミサ(2024/06/23)の模様です。
※許可を得て撮影しています。
☆親族代表(喪主=夫=田淵隆明)挨拶
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1054年の東西教会の大分裂の最大の原因となったFilioque問題について。
歴史的にみると、キリスト教の根本的な信条(仏教の般若心経に相当)である二ケア・コンスタンティノポリス信経について、787年の第七回公会議の時点では第8節のFilioque(子からも)はありませんでした。その起源は実は8世紀のイベリア半島にありました。
711年、イスラム帝国(ウマイヤ朝)の侵略により、西ゴート王国は崩壊し、15世紀末に至るまで、イスラム王朝の占領下におかれました。この中での俗ラテン語の混乱の中でFilioqueの原型であるde Filio(子によって)という注釈が生まれました。イベリア半島・ガリア(フランス)では出発点も手段もde+被制格で置き換えられたため急速にFilioqueは広まりましたが、イタリアでは出発点(ラテン語ではex)はda,手段はdi(ラテン語ではde)の使い分けが残りました。そのため、10世紀まで、 Filioqueはローマのあるイタリアでは広まりませんでした。
しかし、ラテン語には無かった定冠詞の誕生(男性単数形はel)と前置詞+定冠詞の融合形のの普及により、da+el>dal, di+el>delとなり、調音点が接近したとこから、dal Patre et dal Filioとなり、これが俗ラテン語ではex Patre et Filioを経由してex Patre Filioqueになったものと考えられます。
★一般に侵略は被征服地の言語の破壊と混乱をもたらしますが、ウマイヤ朝によるイベリア半島侵略とジズヤの強制は、東西教会の大分裂の遠因ともなったようです。
★15世紀のバーゼル・フェラーラ・フィレンツェの公会議では、ラテン語正文において、ex Patre Filioqueを、ex Patre per Filiumとすることで仮合意しました。これは福音書の記述に一致します。ただ、「これはギリシャ語正文には適用しない」とする知恵者がいなかったため、東方では批准されず、最大の悲劇を招きました。2006年、教皇ベネディクト16世は、ギリシャ語ではFilioqueを含まないものを正文としました。