陸軍特攻ボートマルレの実態昭和18年、日本陸軍は、万5歳以上の若者を、海上艇身船隊として募集(4000人)した。その特攻ボートをマルレという。ベニア板でできたボートに250kgの爆弾を積んだ実用性に乏しい兵器だった。その案は、広島市大オコマ島で将校達によって練り上げられた。104人を1船隊としていた。しかし、出撃途中で、彼らが乗り込んだ輸送船は次々に沈められていった。フィリピンのルソン島で、マルレは小さな戦果をあげたが、後は、敵に警戒され、成果を上げることができなかった。アメリカによる徹底的な掃討作戦で、マルレを失った特攻隊員たちは、虫けらに様に、敵弾に当たったり、餓死して死んでいった。ある船隊の生存者はたった一人、ルソン島に投入された800人の内、約9割が死亡した。生き残った者達は、戦後も心の傷を引きずって生活した。 ケラマ諸島には312人が配置されていたが、全く戦果をあげることができなかった。沖縄でも、配置された艇身隊員達(300隻)は、全く米軍対して歯がたたなかった。この」戦闘シーンで、多くの日本兵の遺体が浜辺で横たわっているシーンが痛々しい。よく「今の日本の繁栄は、多くの英霊のおかげである」という美談が語られるが、南方戦線で生き残った元兵士達は、その美談に異議を唱える。でたらめな大本営の戦略で、武器も食料の補給も無く、餓死していったその死に様は、無駄死にだったと言われる。