【松任キリスト教会】2022-02-06(日) 賛美『神ともにいまして』[1280x720P】天国とんぼとその母の証し
【母の告白】
1999年、私が洗礼を受け帰ってきた日に、母は昭和14年19歳の時に買った聖書と賛美歌集を持ち出して来て、嬉しそうに私に見せました。
購入したのち母は、北陸、関西、東京の各地を14~5回引っ越しをし、〝引っ越しのプロ〟を自認していましたが、そのモットーは、「荷物を貯めないこと。とにかく捨てること」でした。
その母が購入してから60年の間、捨てることなく、聖書と讃美歌集を持ち続け、引っ越しをしていたことを知り、驚きました。
母は言いました。
「私は跡取り娘だったので洗礼を受けられなかったけれど、お前が洗礼を受けたと聞いて、自分では意識してなかったけれど、そうなればいいと思っていた自分の心の奥の奥の願いを神様が聞き届けて下さった気がして感動しています」と告白しました。
私は世間では孝行息子のように思われていたようですが、就職するときも、退職するときも、洗礼を受ける時も相談することなく、すべて事後報告で、そのことで文句を言われるとばかり思っていたら、全く逆の反応でしたので、驚きましたし、感動もしました。
【神様の存在を教えてくれた母】
思えば、神様の存在を最初に教えてくれたのも母でした。
**ころ、苦し紛れの嘘をつく私に母は、「お前は嘘をついて私を騙せたと思っているかもしれないけれど、嘘をついたことはお前自身がよく知っているし、神様も知っておられます。神様を騙すことは出来ませんよ」と
私の心に怖い神様の姿が焼き付けられました。
その後、多少はいい子になりましたが、あくまでも人の目を意識したパフォーマンスでいいことをしている子でした。
そのことを見抜いていた母は言いました。「本当のいい子は人が見ていないところでもいいことをするのよ。人が見ていなくても、神様はすべて見ておられますよ」と。
私の心に優しい神様の姿が上書きされ、それ以来、みんなが帰った後の教室で机をそろえたり、黒板をきれいにしたり、黒板消しのチョークを落としたり、人が見ていないところでいいことをするようになり、以来私の中の神様と相談しながら生きてきました。
【母は私の師】
初めて聖書を読んだときに、初めての気がしませんでした。
自分が常々思っていることが書いてあると思いました。
それは母が聖書の内容をかみ砕いて私に教えてくれていたからでした。
クリスチャン作家の曽野綾子や遠藤周作、北杜夫らの本が好きになったのも、母の影響でした。
中学時代に遠藤周作の『おバカさん』を読み、主人公のガストンは自分だと思いました。
その後、『おバカさん』は遠藤周作がもし現代の日本にイエス・キリストが現れたらと仮定して書いたファンタジー小説だと知り、イエス・キリストに興味をもつきっかけになりました。
【家庭礼拝時代】
しかし、ある出来事がきっかけで宗教アレルギーになり、それからは組織に入るのは怖くなり、無教会のクリスチャンを自認するようになりました。
その後、会社の同僚から恩師となったS牧師を紹介され、家庭集会での礼拝に参加するようになりましたが、S先生が体調を崩して来られなくなると、家庭礼拝もなくなりました。
行き場を失った私と友人たちは我が家で、当時松任キリスト教会の牧師だった高木攻一先生を招いて家庭礼拝をするようになりました。
母は相談した際に同意しただけでなく、礼拝に毎週参加していましたし、聖餐式にも躊躇なく加わっていました。
母は千冊以上の蔵書をもち、特にクリスチャン作家である遠藤周作と曽野綾子の小説が大好きでしたので、理解ある態度は当然と受け止めていました。
そして、この家庭礼拝が松任キリスト教会で洗礼を受けることにつながったのは言うまでもありません。
【母の思い】-
小説以外にも宗教関係の本も100冊以上あり、そんな母が私に言ったことがあります。
「私は浄土真宗も意外と好きなのだけれども、浄土真宗ってキリスト教の影響を絶対受けている気がする。親鸞と師匠の法然の関係は、イエス様と父なる神様の関係そのものだもの」と。
日本に仏教が伝来したころには、中国に既にキリスト教が伝わっていたので、その影響を受けていてもおかしくはないと思いましたが、正式に調べたわけではないので、あくまでもそんな気がするといった程度の会話でした。
母は、「私はあの世でお父さん(夫)に会いたい。早く亡くなったお父さんより育ててくれたおじいさんに会いたいけれど、それよりも誰よりもお父さんに会いたい。そして、いつかはお前たちにも会いたい」と私に言っていました。
しかし、浄土真宗というより仏教では霊の存在を認めておらず、死ねば輪廻転生の六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の6つの世界)のどこかに生まれ変わるか、そこから抜け出し(解脱して)仏になったとしても、今の人格ではなくなってしまうので、家族の再会は出来ないという結論が母の中で出たことが、母が晩年キリスト教へ傾倒していった理由のようでした。
母はその後、認知症になり、私のことを自分の妹や、弟のような存在だった従兄弟の名前で呼ぶようになりました。
【家族との再会が母の希望】
一番近い存在である私のことを忘れてしまったことは信頼している証しとして誇りに思っていますが、そんな彼女がよく口ずさんでいたのが、「またあ~うひまで~、またあ~うひ~ま~で~」という歌詞の曲でした。
死後、その曲のことが気になり、讃美歌集で調べたところ、すぐ曲名が判明しました。
賛美歌集のなかで唯一端が折られ、頁の数字が赤えんぴつで丸が付けられていたのが『神ともにいまして』だったからです。
母にとっては天国で家族と再会することが一番の夢だったということに気づかされた次第です。
こうしたことを私が証しすることで、生前母が出来なかった証しを、死後証しすることになるような気がして、順一牧師にリクエストした次第です。
受け入れてくださった先生とイエス様に心から感謝を捧げます。
以上、天国とんぼとその母の証しでした。