満蒙開拓青少年義勇軍1938年1月政府は、「片手に鍬、片手に銃」をキャッチフレーズにして、満蒙開拓青少年義勇軍の応募を行なった。貧困のため活路を満州に求めざるをえない農村の少年達は、満州で地主になることを夢みて、義勇軍に応募、8万6530人(約五万人あまり)が帰国)の少年が満州へと送り出された。 しかし、政府にとっての彼らの位置づけは「兵士予備軍」であり、彼らは農業実習とともに軍事教練を受けてから、ソ連との国境近くに開拓地を与えられました。そして20歳になると、結婚したばかりの妻や生まれたばかりの子どもと別れて、軍に入隊。残された家族は、日本の敗戦とともにソ連軍や、日本人に土地を奪われ恨みに思っていた中国人に襲われ、多くの人が命を落とした(1945年5月の時点で既に日本軍はソ満国境付近から撤退を開始しており、開拓民は置き去りにされてた)。義勇軍の少年達は、茨城県下中妻村字内原の内地訓練所で三ヶ月、満州の現地訓練所で三年間の訓練を受けた後、政府の補助金を受け、建国農民として、入植した。一戸当たりの耕地規模は十町歩、平均300名で一開拓団を形成。昭和16~20年の間に総計251の開拓団が入植した。 義勇軍は、ソ連との国境近くに開拓地を割り振られた。その土地は中国人の耕作地を日本政府が強権的に安い値段で買い上げたものであった。また、少年達の中には、食糧が足りない時に、中国人の家から盗む者もあり、恨みをかっていた。このことが、後の引揚げ時に地元民に襲撃される悲劇を生んだ。