m_all_191207_細工は流々の公権力悪用の朝鮮策動も、老若男女の徘徊とゲリラ出動は欠かせぬ特殊工作、ホトボリ冷めればでコントロールされて居る現況・・・
朝鮮策動は多岐多面に及んで居る事は、数多い事象に現れています。。自治行政全般・警察行政は基幹部分であり、戦後体制下の中での民主警察の限界を目論んだ朝鮮策動の実態を、各事象として鮮明にして来て居りましたが、現状は、テロ暴動が内在する弾圧的破壊主義グローバリストの在日派と、反グローバリズムの日本派との軋轢を抱えている各組織集団の様相と思われますね。
http://www.lawandpractice.net/files/yongou/matsuzawa.pdf 、より。
95 〔論 説〕教唆犯と共謀共同正犯の一考察―いわゆる「間接正犯と教唆犯の錯誤」を切り口として―松 澤 伸
I 問題の所在II 教唆犯論の現状 1 教唆犯処罰の現状 2 教唆犯の本質 3 処罰される教唆犯類型と共謀共同正犯III いわゆる「間接正犯と教唆犯の錯誤」
1 従来の学説整理 2 学説の理解
(1)間接正犯説の理解 (2)教唆犯説の理解―錯誤アプローチ 3 理論的問題点と本稿のアプローチの基本的視点
IV 新たなる解決V むすびにかえてI 問題の所在ここに次のような事例がある。
医師Aが,看護師Bに,その意図を秘して,患者を殺害する目的で毒薬入りの注射を渡し,注射してくるように命じた。看護師Bは医師Aの意図に気づいたが,そのまま患者を殺害する意思を生じて患者に毒薬入りの注射をし,患者は死亡した。以下,事例Iと呼ぼう。この事例Iは,“間接正犯と教唆犯の錯誤”として知られている事例で,医師Aの罪責について,通説は,間接正犯の意図で教唆犯の結果が発生しているのだから,間接正犯と教唆犯とが符合する限度で,軽い教唆犯の既遂が成立し,Aは,殺人罪の教唆犯となる,と解している。これに対して,間接正犯の既遂の成立を96Law&PracticeNo.04(2010)肯定する学説がわずかに見られるが1),少数にとどまっており,教唆犯説は,圧倒的な通説の地位を占めている2)。しかし,このような事例を教唆犯の既遂として処理する解決は,現在も妥当性を保ち続けるものなのであろうか。
本稿は,以下の二点から,このような解決に疑問を感じている。第一に,我が国の判例の現状では,教唆犯は,ほとんど認められていないということである。判例は,教唆犯として処罰する以外の理論的可能性が認められないごく例外的な場合を除いて,教唆犯による処罰を消滅させたといってよい状況にある。この現状で,現在の裁判所が,事例Iにおいても教唆犯の成立を認めるであろうか。第二に,事例Iは,媒介者がコントロールされていない事例であるが,このような場合の取り扱いに関して,最高裁では,最近重要な判例が出されており,これらの判例を踏まえると,教唆犯以外の解決が採られる可能性がかなり大きいとも思われることである。
ここでいう重要な判例とは,最決平成13年10月25日刑集55巻6号519頁(以下,平成13年決定)である。スナックのホステスであった甲女が,スナックの女性経営者から金品を強取しようと企て,当時12歳10ヶ月の長男乙に対し,覆面をし,エアガンを突きつけて脅迫するなどの方法により,同経営者から金品を奪い取ってくるよう指示命令し,強盗を実行させた,という事案について,最高裁判所は,「乙には是非弁別の能力があり,被告人の指示命令は乙の意思を抑圧するに足る程度のものではなく,乙は自らの意思によ り本件強盗の実行を決意した上,臨機応変に対処して本件強盗を完遂したことなどが明らかである」ことを理由として,甲女について,「本件強盗の間接正犯が成立するものとは,認められない」とし,(共謀)共同正犯の成立を認めている。1)団藤重光『刑法綱要総論』429頁(創文社,第3版,1990年),香川達夫『刑法解釈学の諸問題』87頁以下(第一法規出版,1981年),野村稔『刑法総論』440頁(成文堂,補訂版,1998年)など。なお,後掲注2)に関するものを含め,学説の詳細については,本稿IIIで検討する。2)なお,教唆犯の既遂の成立と同時に間接正犯の未遂の成立を肯定し,法条競合により,結論として教唆犯の既遂の成立のみを認める見解も有力であるが,この見解は,結論においては教唆犯の既遂を認める見解と同一であることから,教唆犯説の一つと位置付けられ得る。そして,この見解については,教唆犯を認めることから,以下本文で述べるような疑問が妥当することになる点において,少なくとも本稿の問題意識の下では,通説と同じ構造をもつといえる。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)97この判決が注目されるのは,最決昭和58年9月21日刑集37巻7号1070頁(以下,昭和58年決定)においては,媒介者が同じく12歳の刑事未成年者である場合について,背後者に間接正犯の成立が認められているからである。事案は,12歳の養女Aを連れて霊場巡りの旅に出たBが,途中で宿泊費などに窮したため,Aを利用して寺から金員を窃取しようと企て,AがBに逆らう素振りを見せると顔にタバコの火を押しつけたり,ドライバーで顔をこするなどしてAを意のままに従わせることにより,2ヶ月半の間に,13回にわたって納経所等から現金を窃取させたものというものであるが,最高裁判所は,「自己の日頃の言動に畏怖し意思を抑圧されている同女を利用して右各窃盗を行つたと認められる」ことを理由として,Bについて,窃盗の間接正犯の成立を肯定している。前者について(共謀)共同正犯,後者について間接正犯が認められる理由はどこにあるのか。媒介者がいずれも12歳の刑事未成年者であるこれら二つの判例の結論の違いは,結論においては,媒介者が完全に支配されているか否かという点に求められる。そうだとすれば,完全に支配されている者を利用した場合には間接正犯,そうでない者を利用した場合には(従来考えられてきたように,教唆犯でなく),共謀共同正犯が成立するともいい得るのであるから,事例Iにおいて,間接正犯が成立しない場合に,教唆犯ではなく,共謀共同正犯の成立を考慮する可能性は十分あるといえる。また,次のような事例もある。Aは,刑事責任能力者であると誤信してBに窃盗を教唆したところ,実際にはBは刑事未成年者であったという事例である。事例IIと呼ぼう。この事例IIについては,間接正犯として擬律すべきであるが教唆犯としての刑を科すべきであるとしたものとして,仙台高判昭和27年2月29日高裁刑特報22号106頁(以下,昭和27年仙台高裁判決)がある。この裁判例については,客観的に間接正犯の成立を認めて教唆犯の刑を科したものか3),単に教唆犯を認めたものかについては必ずしも明らかでない4)ものの,結論として,Aに窃盗の教唆犯の責任を認めた点は,一般に,肯定的に評価されている。そして,学説3)たとえば,最近でも,齋野彦弥『基本講義刑法総論』285頁(新世社,2007年)は,このように整理する。大塚仁「間接正犯と教唆犯との錯誤」齊藤金作博士還暦祝賀『現代の共犯理論』118頁(有斐閣,1964年)は,この点を批判する。4)中山研一ほか『レヴィジオン刑法1』161頁〔浅田和茂〕(成文堂,1997年)参照。
98Law&PracticeNo.04(2010)は,ほぼ一致して,このような場合には,間接正犯と教唆犯の符合する範囲で,教唆犯の成立を認めている。しかし,この場合も,現在の裁判所が教唆犯の成立を肯定するか疑問がある。また,先に示した二つの判例を前提とすると,本件では,Aが刑事責任能力者であると誤信している程度に,Bが**内容を理解しているのだとすれば,共謀共同正犯が認められるとも考えられよう。ともあれ,この裁判例は,共犯論が現在のように発展する以前のものであり,現在よりも教唆犯を認めるのに抵抗がなかった時代のものである。しかも,事案は,責任能力者だと思っていたところ責任無能力者であった,というものであった。刑事未成年者との間でも共謀共同正犯が成立するとする上記判例が出されている現在では,かなり事情が異なるといえる。そう考えると,高等裁判所の裁判例であることから考えても,この裁判例が現時点で妥当するかどうか,疑問をさしはさむ余地はある。本稿は,以上のような問題意識に基づき,従来,教唆犯が成立するとされてきた事例Iおよび事例IIについて,共謀共同正犯成立の理論的可能性を探ることにより,教唆犯と共謀共同正犯の関係(さらに,間接正犯の若干について)を整理しようとする試みである。II 教唆犯論の現状1 教唆犯処罰の現状ところで,教唆犯は,現在の我が国の判例においては,ほぼ現れることがない共犯類型である。教唆犯の処罰は,戦後一貫して0.5パーセント以下であり5),仮にその処罰があるにしても,教唆犯の成立を認める以外に処罰の方途がない特定の犯罪―犯人蔵匿・証拠隠滅教唆,自手犯(無免許運転や酒気帯び運転等の道路交通法違反等)―の教唆に偏っていると推測される6)。これら特殊な場合以外5)亀井源太郎『正犯と共犯を区別するということ』8頁注21(弘文堂,2005年)。6)木山暢郎「共犯事件と量刑(上)」判タ1202号94頁注2(2006年)。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)99の一般の犯罪類型については,教唆犯の処罰は,事実上消滅したといってよいと思われる。2 教唆犯の本質教唆犯が,事実上処罰されていないのだとすると,教唆犯とは,結局のところ,どのような犯罪だったのか。団藤重光は,教唆犯における“教唆”の意義について,「人に犯罪実行の決意を生ぜしめることである」7)としている。このような理解は,ほぼあらゆる学説で共有されているといってよい。そして,このような教唆行為に基づいて,正犯者が実行行為に出れば,教唆者は教唆犯として処罰されることになる。しかし,考えてみると,これは,共謀共同正犯の一場合と実際上異なるところはない。共謀共同正犯とは,数人が犯罪を行うために共謀を行い,その共謀者の一部が実行行為に出れば,共謀に参加した者についても共同正犯として処罰されるというものであるから,人に犯罪実行の決意を生ぜしめることは,共謀の一場合・一場面として登場するもの以外にはあり得ない。それゆえ,教唆犯は,共謀共同正犯に吸収されてしまったのだともいえるのである。しかし,従来,通説は,教唆犯と共謀共同正犯とを区別してきた。結局,教唆犯とは何かという問いに実質的に回答するには,(共謀)共同正犯と教唆犯の区別―すなわち,正犯と共犯の区別―を通して,教唆犯の外延を明らかにする以外にないであろう。そこで,従来の正犯と共犯の区別についての議論を見てみよう。この議論は,古くからの難問で,多くの学説が展開されてきた。たとえば,自己の犯罪として行った場合が正犯・他人の犯罪として行った場合が共犯とする見解(自己の犯罪説),重要な役割を果たした場合が正犯・そうでない場合が共犯とする見解(重要な役割説),行為支配を行っていた場合が正犯・そうでない場合が共犯とする見解(行為支配説)等が,現在のところ有力な見解である。これらの見解は,い7)団藤・前掲注1)403頁。
100Law&PracticeNo.04(2010)ずれも,行為の客観面を実質的に見た上で,誰が正犯で誰が共犯かを分けていこうとするものであり,実質的客観説と呼ぶべき学説である8)。これに対し,かつては,実行行為を行った者が正犯・そうでない者が共犯という区別(形式的客観説)が有力な時期があった。この見解には現在でも有力な支持者がおり,少数説と呼ぶのははばかられるが,共謀共同正犯を肯定する判例においては,実行行為によって正犯と共犯を分けることはできないのが現状である。なお,形式的な実行行為でなく,準実行行為を要求するといった表現が見られる場合もあるが,これは,実際上は,実行行為に準じる重要な役割を果たした場合に正犯とする説といいかえることができるのであって,重要な役割説と同様な内容を意味していると考えられる。では,このような正犯と共犯の区別に関する議論があるにもかかわらず,判例が教唆犯をすべて共謀共同正犯に組み入れてしまったのはなぜか。その理由は,この基準を,教唆犯と共同正犯の区別に,実際に当てはめてみると明らかになる。たとえば,自己の犯罪説であれば,他人を唆して犯罪を実行させるような場合は,自己の犯罪を実現したのであるから,正犯(ここでは共謀共同正犯,以下同様)となるし,重要な役割説であれば,他人を唆して犯罪を実行させるような者はどのような場合であっても重要な役割を果たしたといえるのだから,正犯になる。また,行為支配説によっても,唆された内容にしたがって犯罪を実行したのであれば,結果を支配したといえるため,正犯ということになる9)。要するに,8)なお,自己の犯罪説は,判例が採用しているといわれる。正犯意思の有無で正犯と共犯を区別する主観説に似ているように見えるかもしれない。実際,主観説として分類する方が一般的である。確かに,ここでは,行為者の意思によって判断する面が強く現れているが,単に主観面のみで判断するのではなく,客観面を加えつつ,あるいは,むしろ客観面を中心に,それから推認される主観面を基準に判断するものである。このような実態に鑑みれば,自己の犯罪説は,主観説と呼ぶよりも,むしろ,実質的客観説の一場合と考えた方がよいと思われる。ただし,正犯と共犯の区別に際して主観面の重視に偏っていることが指摘されており,それを理由に批判されることもある(たとえば,西田典之「共謀共同正犯について」平野龍一先生古稀祝賀論文集上巻383頁(有斐閣,1990年)参照)。9)なお,照沼亮介『体系的共犯論と刑事不法論』145頁(弘文堂,2005年)のように,行為支配説をとりつつ共謀共同正犯に否定的な見解もあるが,大抵の我が国の行為支配説は共謀共同正犯を肯定するため,このような結論となるはずである。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)101このような実質的基準を設ければ,教唆犯が正犯として評価されてしまうのは当然の成り行きなのである。この点,純粋な主観説(行為者の正犯意思のみで正犯と共犯を区別し,客観的事情を一切考慮しない見解)を採用するのであれば,教唆犯と共謀共同正犯を分けることは可能である。たとえば,主観説によれば,金に困っている友人に公金の流用を示唆するような場合10),特に,犯罪の結果も聞いていなければ分け前にもあずかっていないといったようなときには,教唆犯になるとされる11)。しかし,この見解には,“正犯なき従犯”を認めなければならない場合があるという重大な欠陥がある。この欠陥が明らかになった事件として,ドイツにおけるバスタブ事件が有名である12)。この事件では,姉が妹の子供を殺した,という事案について,妹のために殺したのだから正犯意思がなく正犯とはならない,ということで,姉は実行者にもかかわらず,従犯とされた。こうして,正犯が存在しない従犯の成立を認めざるを得ない点で,主観説は不当であり,これを純粋に貫くことは,遠い昔に斥けられている。また,形式的客観説も教唆犯と共謀共同正犯を分けることができる。しかし,それは,犯罪を唆したものを教唆犯とし,共謀共同正犯の存在を認めないという方法によるものであって,教唆形式以外の心理的関与については,いかに重要な役割を果たしていても(たとえば,途中から関与したため犯罪意思を惹起も補強もしていないが,犯罪全体において極めて重要な役割を果たしている場合であっても),従犯とせざるを得ない。これは,具体的な帰結においても疑問であるし,判例にも受容されなかった。以上のように,共謀共同正犯の成立を肯定し,また,従来の正犯と共犯の区別の議論を前提とする限り,教唆犯は共謀共同正犯に解消されざるを得ない。10)佐伯千仞『四訂刑法講義総論』358頁(有斐閣,1981年)参照。11)しかし,このような場合は,実際にはあり得ないであろう(亀井・前掲注5)185頁注72参照)。仮にあったとしても,主観面的に自己の犯罪と思っているかどうかだけでなく,多少でも客観面を考慮するなら(現在の我が国における自己の犯罪説など),犯罪の原因を生み出した以上,「その人の犯罪」と評価し得ると思われる。12) RGSt74, 84.
102Law&PracticeNo.04(2010)しかし,従来の正犯と共犯の区別という議論の重点が,専ら,正犯と幇助犯の区別に置かれてきたため,新たな視点から,共謀共同正犯と教唆犯を区別する試みを行うことも不可能ではない。このような試みの一つとして,最近,嶋矢貴之による主張がある13)。嶋矢は,「共同性」の観点から共同正犯と教唆犯の区別を行うのであるが,共同正犯について,「双方向的な因果的影響力」を要件とするところにその特色がある。この見解は,一応,言葉の上では理解できる。しかし,実質を見た場合,有効な基準かどうか,疑問を感じざるを得ない。まず,典型的な支配型の共謀共同正犯を教唆犯とせざるを得ないのではないか,という疑問がある。背後者の指示がシンプルで強力であればあるほど,因果的影響力は一方的なものとなり,双方向的な因果的影響力は及んでいないことになる。その結果,共同惹起は行われていない,といわざるを得ないということになろう。この見解からすれば一貫した結論であるとしても,実務からの要請にはこたえられないのではないか。さらに,この見解は,もしかすると,意思の連絡があり,かつ実行行為が行われている場合であっても,共同正犯となり得ない可能性がある。
たとえば,次のような場合である。AがBにCの殺害を指示した。Bはこれを了承したが,特に殺害計画等についてAと共同準備することはなかった。Bはピストル,Aは毒薬でCを殺害する行為を行ったが,どちらも別個に行われた行為であり,死亡についての因果関係は証明されていない。この場合,嶋矢説における「共同性」があるとはいえない。Aは殺人未遂教唆と殺人未遂,Bは殺人未遂となろうか。結論の妥当性の点で疑問があるし,少なくとも,実務とは合致しないであろう。以上の検討から,結論として,共謀共同正犯を肯定し,正犯と共犯の区別について実質的な基準を設けた以上,教唆犯は,共謀共同正犯に解消される運命にあったといえる。そもそも教唆犯とは“造意犯”であり,我が国では古くから正犯の一つと考えられ,また,旧刑法典でも,正犯の一つとして規定されて13)嶋矢貴之「過失犯の共同正犯論(2・完)」法学協会雑誌121巻10号1696頁(2004年),同旨,島田聡一郎「間接正犯と共同正犯」神山敏雄先生古稀祝賀論文集『第一巻 過失犯論・不作為犯論・共犯論』462頁以下(成文堂,2006年)。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)103いた14)。運用の中で,共謀共同正犯へと解消されていったのは,むしろ自然な流れといえよう15)。なお,注目すべきなのは,教唆犯を正犯と解する見解である。この見解は,教唆犯を「自己の犯罪を実現する」16)犯罪と理解し,端的に正犯とした点で,過去のあらゆる学説のくびきを逃れ,教唆犯の本質を適切に把握した我が国唯一の見解である。しかし,この見解では,判例の現状を説明することができない上,教唆形式以外の重要な心理的関与を従犯としてしか処罰できない点で,形式的客観説と同じ問題を抱えるのである。3 処罰される教唆犯類型と共謀共同正犯このような分析に対しては,現状では,教唆犯は処罰される場合もあるのだから,共謀共同正犯に解消されたとはいえない,という反論も考え得る。確かに,現状では,教唆犯が処罰されている犯罪類型もある。しかし,それは,事実上,一定の犯罪(犯人蔵匿教唆・証拠隠滅教唆など)に限られている。これらの犯罪類型について,他人に犯罪を実行させた者が(共謀共同正犯ではなく)教唆犯として処罰されているのは,このような者を正犯として処罰する規定が存在せず,共謀共同正犯として処罰する実定法上の根拠が存在しないからである。つまり,これらの犯罪類型については,教唆犯として処罰されるための特別な理論的な理由が存在するのではなく,“教唆犯に落として”処罰している,というのが実際のところである。しかし,これに対しては,本来,正犯として処罰できないのならば,共犯としては尚更処罰できないはずであるという批判がある。処罰規定が存在しない理由を期待可能性の欠如に求めるのだとすれば,正犯としてすら期待可能性がない以上,より軽い共犯としては尚更期待可能性がない,ということになる。この批判は,理論的には正当なものである。14)旧刑法典総則8章は「数人共犯」を規定し,共犯を正犯と従犯に分けている。さらに正犯は,「二人以上現に罪を犯したる者」と「人を教唆して重罪を犯せしめたる者」が含まれる。15)むしろ,犯罪論が立法をも拘束する理論的な機能をもつとするのならば,犯罪の本質論としては,教唆犯は正犯と考えるのが正当と思われる。16)野村稔・前掲注1)384頁。
104Law&PracticeNo.04(2010)そう考えると,判例は,本来処罰し得ない行為を,教唆犯というかたちを借りて処罰 していることになる。すなわち,ここでは,新たな処罰規定が“創設されている”のと類似した状況が起こっている。そもそも,共謀共同正犯の処罰についても,“立法”であるとの指摘が行われてきた17)。学説が共謀共同正犯にこぞって否定的であったのも,共謀共同正犯が新たな処罰規定を創設することになり,罪刑法定主義に反すると考えられたことによる。学説が共謀共同正犯を否定してきた理由は,刑法60条(以下,刑法は条数のみで引用する)の文言にある「実行」を,実行行為と読んだことにあったが,のちに,この文言解釈は,必ずしも決定的なものではないことが意識されるようになる。そうなると,共謀共同正犯を否定する根拠はほとんどなくなってしまい18),結局,現在は,共謀共同正犯肯定説が多数を占めている。では,共謀共同正犯処罰にはなんらの問題もないのか。そうではない。共謀共同正犯の処罰は,やはり,“処罰規定の創設”に類似した状況を現出させているというべきである。というのは,61条において“実行行為を伴わない自己の犯罪”を教唆犯として処罰する規定が存在するのであるから,実行行為を伴わない自己の犯罪を,教唆犯以外のかたち―すなわち共謀共同正犯のかたち―で処罰するのは許されない,という解釈も考えられるからである(むしろ,60条の「実行」の文言よりも,こちらの方がより重要な問題であるように思われる)19)。17)団藤・前掲注1)401頁(なお,同書初版から同一記述がある)。18)なお,照沼・前掲注9)145頁以下は,依然として共謀共同正犯が否定されるべき理由を説得的に説明しており,否定説の論理としては非常に優れたものがある。特に,同書149頁が,「正犯・共犯の区別を...一種の量刑の問題として把握するものであり,正犯・共犯の成立を構成要件と関連付けて考える立場とは相容れない」とする点は,問題の本質を鋭く指摘する点で重要である。しかし,本稿は,正犯と共犯の区別は,まさに量刑事情とほぼ同義だと考えている(西田典之『刑法総論』332頁(弘文堂,初版,2006年)は,現状に対して否定的なニュアンスではあるものの,「共同正犯か従犯かという区別は単なる量刑問題にすぎないという側面をもっていることは事実である」とする。なお,川端博ほか「共同正犯論の課題と展望」現代刑事法28号31頁〔西田発言〕では,比較的肯定的なニュアンスで,「共犯性があるというところが確定されたら,あとは一種の量刑事情だと思いますね。
...現実問題として共犯ということになれば,あとの分け方は法律がそう規定しているから分けましょうということ」とする。本稿の基礎には,このような考え方がある)。19)その意味で,野村説は理論的に完全に一貫した見解である。61条の規定の存在を前提とする限り,教唆犯と共同正犯を明確かつ理論的に分けられる見解は,既に述べた①形式的客観説,②野村説,③嶋矢説である。このうち,①,③は,教唆犯として処罰されることが予定されている行為の実態(正犯であること)に合わない見解である。②が最も実態をつかんだ見解であ・・・・・・・
・・・・教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)1072 学説の理解(1)間接正犯説の理解最近では,基本的に,間接正犯説には無理があることが認識されているといってよい27)。行為者の主観においては間接正犯のつもりだったのに,客観的には媒介者が完全に支配されていなかった,あるいは規範的障害となっていなかったとすれば,媒介者は“道具”ではなくなっており,それは間接正犯とは呼び得ないであろう28)。(2)教唆犯説の理解―錯誤アプローチ教唆犯説にはさまざまなニュアンスの相違がある。③説は,客観面のみに着目する考え方であるから,一面的との批判を免れ得ず,現在支持する者はほとんどいない。したがって,ここで検討に値するのは,④説と⑤説であるが,両者には,大きな違いがあるようにいわれることもある。しかし,基本的な考え方としては,間接正犯・教唆犯のうち,符合が認められる軽い範囲で犯罪が成立する,という発想においては,同一である。まず,④説は,事例I,IIともに抽象的事実の錯誤であり,38条2項が適用され,法定的符合説により,構成要件の重なり合いがある範囲で教唆犯が成立する,とする29)。これに対し,⑤説も,基本的には同一の発想をする。たとえば,て,団藤・前掲注1)429頁,④説をとるものとして,たとえば,西田・前掲注18)311頁,312頁,曽根威彦『刑法総論』242頁(弘文堂,第4版,2008年),内藤謙『刑法講義総論(下)II』1455頁(有斐閣,2002年),林・前掲注23)445頁等。また,責任無能力者を犯罪に誘致しようと思ったが実は責任能力者であった場合(事例IIの逆の場合)をあげ,②説をとるものとして,野村・前掲注1)440頁,④説をとるものとして,たとえば,大塚仁『刑法概説(総論)』343頁(有斐閣,第4版,2008年),西原・前掲注23)318頁等。看護師事例・責任無能力者事例両方をあげて⑤説をとるものとして,たとえば,佐久間修『刑法総論』401頁(成文堂,2009年)等。この問題状況について,具体的な事例をあげず,④説をとるものとして,山中敬一『刑法総論』819頁および952頁(成文堂,第2版,2008年),⑤説をとるものとして,たとえば,山口厚『刑法総論』346頁(有斐閣,第2版,2007年),井田良『講義刑法学・総論』502頁(有斐閣,2008年),堀内捷三『刑法総論』298頁(有斐閣,第2版,2004年)等。27)川端・前掲注25)240頁以下では,内田文昭が間接正犯説から教唆犯説に改説したことが述べられている。28)議論の詳細は,川端・前掲注25)253頁以下。なお,野村・前掲注1)440頁は,教唆犯を正犯とする理解からの帰結であり,本文のような事情は当たらない。しかし,その論理構成は必ずしも明らかではない。29)たとえば,大塚・前掲注26)344頁,福田平『刑法総論』298頁(有斐閣,全訂第4版,2004年),西田・前掲注18)311頁等。なお,事例Iについて38条2項を類推適用するものとして,川端・前掲注25)259頁以下。
108Law&PracticeNo.04(2010)平野龍一は,「構成要件的符合があれば足りるとする以上,符合を認むべきである」30)とする。それでも両説間に対立が生じているのは,間接正犯の未遂の成立の理論的可能性を肯定するかどうかにある。これは,むしろ,間接正犯の実行の着手時期をどう捉えるかという論点と関連するもので,錯誤の処理という問題からは,直接関係ない論点の解決が結論に影響を及ぼしているものである。基本的には,間接正犯の実行の着手時期を,利用者の行為時とすると,間接正犯の未遂が成立し得るが,被利用者の行為時とすると,間接正犯の未遂は生じ得ない,と解されることになる31)。以上のような議論の応酬があるものの,結論は,間接正犯の未遂と教唆犯の既遂の法条競合で教唆犯の既遂となるから32),実際上はほぼ理論上の対立にとどまると思われる33)。なお,この場合の教唆は,片面的教唆ではないことを確認しておこう。ここでは,教唆した側が相手が認識しているかどうか知らないという状況であるが,このような状況は,通常の教唆においてもあり得る事態である(たとえば,手紙で殺人を唆し,正犯者が実行したような場合。この場合も教唆は認められるであろう)。片面的教唆とは,相手が教唆されていることを知らない場合をいう。片面的共同正犯・片面的幇助も同じである。つまり,犯罪に誘致した者が,相手がどう認識しているか分かっていなくても,被誘致者が誘致した側の行為を認識していれば,共犯・共同正犯は成立すると考えられる。つまり,この場合は,片面的共犯ではなく,普通の共犯,共同正犯ということになる(この視点は,のちに共謀の意義を検討する際に役立つものである)。30)平野龍一『刑法 総論II』389頁(有斐閣,1975年)。31)西田・前掲注18)311頁,312頁。但し,山口・前掲注26)346頁をも参照。32)平野・前掲注30)390頁。33)なお,この点,川端・前掲注25)259頁は,「一般論としては,いずれの吸収関係もそれぞれの観点において妥当性を有する」とするが,重い方を適用するとすれば(山口・前掲注26)369頁),教唆の既遂の方が任意的減軽がなく重いので(今井猛嘉ほか『刑法総論』394頁〔島田聡一郎〕(有斐閣,2009年)),教唆犯となると思われる。なお,誘致者に殺人未遂の間接正犯,被誘致者に殺人既遂の直接正犯の成立を認め,誘致者については「教唆犯にもなっているが,これは(間接)正犯に吸収されて錯誤の問題は生じない」とする見解として,立石二六『刑法総論』335頁(成文堂,第3版,2008年)。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)1093 理論的問題点と本稿のアプローチの基本的視点以上のような錯誤アプローチは,考え方の筋道として,正当と考えられる。間接正犯と教唆犯の符合は理論的に認められるといえよう。しかし,既に検討したように,実質的に教唆犯に当たる類型が共謀共同正犯に解消されているとするならば,ここで考えられなければならないのは,間接正犯と教唆犯が符合するかという問題ではなく,間接正犯と共謀共同正犯が符合するか,という問題である。ところで,間接正犯と共謀共同正犯はいずれも正犯とされる。正犯同士の符合があり得るのか。従来,共犯における関与形態間の錯誤という場合,共犯と共犯,共犯と正犯の錯誤が考えられてきたため,間接正犯と共謀共同正犯の錯誤についての議論はほとんどなされていない。しかし,結論からいえば,あり得る,と考えられる。正犯には,いろいろな形態があり,それらの性質にはかなりの違いがあるからである。もう一度,正犯とは何か考えてみよう。広く受け入れられている見解によれば,正犯とは,構成要件に定められている結果の実現に重要な役割を果たした者である。重要な役割については,自己の犯罪を実現している,といいかえてもよいし,行為や結果等の成り行きを支配しているといいかえてもよい34)。このうち,実行行為を行うことで結果の実現に重要な役割を果たした者は,実行正犯とか直接正犯と呼ばれる。(実行)共同正犯は,実行行為を担当する形態の正犯ではあるが,60条を介してはじめて正犯であることが認められるもので,実態は広義の共犯であり,正犯として性格付けは直接正犯より弱まる。34)この意味で,重要な役割説と自己の犯罪説・行為支配説は,同じことを別のいい方で述べていると理解することもできる。この点の対立は,理論上は盛んに論じられるものの,実質的に異なる結論をもたらすものとは思われず,深入りすべきではない。むしろ,実質的な対立は,このような規範レベルの対立ではなく,どのような事実があれば正犯となり,また共犯となるか,ということにある。そこに実質的対立がないのであれば,規範レベルの対立というのは,見かけより大きな意味をもたないのである。たとえば,橋爪隆『正当防衛論の基礎』230頁以下(有斐閣,2007年)は,正当防衛の要件論について,「異なる要件論として正当防衛を制限する見解であっても,そこで考慮されている事実的要素が全く共通であれば,その相違は二次的なものにすぎないといえよう」とするが,これも同様のことを指摘していると思われる。このような意識は,裁判員制度の導入により,解釈論においても重要な認識となりつつある。
110Law&PracticeNo.04(2010)背後者が実行行為を担当していない場合もある。媒介者(被利用者)が存在するが,背後者が正犯とされる場合である35)。これらが,間接正犯と共謀共同正犯である。このうち,間接正犯は,60条を介することなしに認められる形態で,直接正犯と規範的に同等と評価される,正犯としての性格付けが強い正犯である。これに対し,共謀共同正犯は,60条を介してはじめて正犯であることが認められるもので,実態は,実行共同正犯と同じく広義の共犯である。媒介者が規範的障害となっていること・行為支配が不完全であることから見ても,直接正犯とはかなりの距離があり,その犯情も,間接正犯より軽いと考えられる。このように,正犯にもいろいろなものがある。ここで問題となっているのは,間接正犯と共謀共同正犯の相互の関係である。両者は重なっているのか,いないのか(重なり合いが認められれば,事例Iについても事例IIについても,両者の符合する範囲で故意既遂犯の成立が肯定でき,38条2項の趣旨から,軽い罪の成立が認められる,と解するための前提条件が揃うことになる)。しかし,これは軽々しく答えることのできない難問である。詳細は今後の検討を待たなければならないが,現時点では,以下のように述べておきたい。まず, 少なくとも,間接正犯については,広く認められた考え方によれば,媒介者を完全に支配している場合,あるいは,媒介者が規範的障害となっていない場合,背後者には間接正犯が成立する,ということはできる。昭和58年決定の事案は,そのような場合である。したがって,間接正犯の故意は,規範的障害とならない媒介者を使って,直接に犯罪結果をもたらす意思である。これに対して,共謀共同正犯では,媒介者は完全にコントロールされていない。平成13年決定の事案は,そのような場合である。媒介者は規範的な障害になっており,背後者の故意(共謀 共同正犯の故意)は,規範的障害となる媒介者を使って,間接に犯罪結果をもたらす意思である。そうすると,間接正犯の故意と共謀共同正犯の故意は,“媒介者を使って犯罪結果をもたらす”という本質的な部分で重なり合い,しかも,間接正犯の故意の方が直接に結果に向かっている点で,非難が重いということができるよう35)ここでは問題とならないが,実行行為を行っている場合でも狭義の共犯としてしか処罰されない場合がある。故意ある幇助的道具とか,実行行為を行う従犯と呼ばれる場合である。この問題については,別稿で論じたいと考えるが,重要な役割を果たしていなければ,当然,幇助犯としてしか処罰できないことになる。よって,この概念を認める必要がある。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)111に思われる(したがって,事例Iおよび事例IIで符合が認められるとすれば,軽い共謀共同正犯の範囲で認められることになると解される)。問題は,客観面である。間接正犯と教唆犯の錯誤の場合は,間接正犯と教唆犯の客観面がほぼ同一であったため,符合を認めるのに不都合はなかった。しかし,共謀共同正犯においては,間接正犯の成立要件とされない“共謀”が要件とされている。間接正犯においては,背後者から媒介者への指示はあるものの,これをそのまま共謀共同正犯における共謀と同視できるのか。間接正犯における背後者からの“指示”は,従来,共謀共同正犯論において理解されてきた“共謀”とは少し違っているようにも思える。この問題をクリアしない限り,符合は認められないように思われる。そこで,次に,“共謀”の内容に留意しつつ,符合の可否について考えてみることにする。IV 新たなる解決既に述べたように,この問題を解く鍵は,“共謀”の概念をいかに解するかにある。この点,実務では,共謀とは,“意思の連絡+正犯意思”であると解するのが一般的である36)。練馬事件大法廷判決37)後の一時期,共謀とは,“意思の連絡+客観的謀議行為”であると理解されたこともあった(いわゆる客観的謀議説)。しかし,最近では,客観的謀議行為は必ずしも必要ないと見られている。36)裁判所職員総合研修所監修『刑法総論講義案』319頁(司法協会,三訂補訂版,2008年)は,共謀の内容が正犯意思と意思の連絡であることを明快に述べている。また,小林充=香城敏麿編『刑事事実認定―裁判例の総合的研究―(上)』343頁〔石井 一正=片岡博〕(判例タイムズ社,1992年)は,「もとより共謀とは単なる意思の連絡ではないし,他人(実行者)の**の認識・認容では足りない。これらを前提とはするが,共謀というためには,これに加え更に積極的な意思を必要とするであろう。これを共謀者について一語でいえば,『自己の犯罪』の意識ということになろうか」とする。これは,意思の連絡に加えて,自己の犯罪の意識,すなわち正犯意思を要求することを意味するといえよう。なお,小林充=植村立郎編『刑事事実認定重要判決50選(上)』209頁(立花書房,2005年)は,正犯意思を共謀とは別個の要件として立てているが,同書210頁では,正犯意思を,「『共謀』と不可分一体の要件,すなわち『共謀』の主観的部分として把握されて必ずしも独立の要件と扱われていない場合もある」としている。37)最大判昭和33年5月28日刑集12巻8号1718頁。
112Law&PracticeNo.04(2010)それにかわるのは,正犯意思である38)。実務は,自己の犯罪説をとるのだから,正犯意思を問題とする方がむしろ自然であったといえよう。ここでは,このような考え方を基礎に,その内容を再考する。正犯意思については,既に本稿でも検討した。自己の犯罪説にいうところの自己の犯罪を行う意思がすなわち正犯意思であり,事例I,事例IIともに肯定されることに問題はなく,とりたててここで検討する必要はない39)。ここで検討しなければならないのは,“意思の連絡”である。意思の連絡の内容・意義については,多くの議論が積み重ねられている。しかし,その議論は,専ら,意思の連絡の要否,また,“意思”の内容や合意の内容をいかに解するか40)という点に集約されており,“連絡”の意義についてはあまり関心が向けられてこなかったように思われる。そこで従来の議論をみてみると,意思の連絡必要説は,双方向での意思の連絡を想定し,意思の連絡不要説は,意思の受信さえない状態を想定してきたように思われる。しかし,よく考えてみると,実際には,その中間の状態もあり得る。意思の連絡のプロセスは,三段階で理解できる。①まず,誘致者が意思を発信する。38)佐伯仁志「共犯論(2)」法教306号45頁(2006年)は,「『意思の連絡』は,(共謀)共同正犯を認めるための必要条件であるが,十分条件ではない。単なる意思の連絡を超えた謀議行為が認められない場合には,共同正犯性を基礎付ける事情が謀議行為とは別個に必要であ」るとする。この,「共同正犯性を基礎付ける事情」が,正犯意思だと考えられるわけである。39)ただし,正犯意思があるか,すなわち,自己の犯罪といえるかどうかの認定一般については,非常に難しい問題がある。この要件の認定は,極めて雑多な事実によって行われる。そして,その基準も必ずしも明確ではなく,認定に用いられる事実も,“共謀”という文言とはおよそかけ離れたもの(たとえば,利益の帰属等)が含まれる。この問題は,共謀共同正犯の成立範囲を定める際の最重要問題の一つであり,このような事実を規範レベルまでもちあげることが,共謀共同正犯の成立要件の理論的正当性を検証可能なかたちで提供するための一つの課題であるが,刑事における要件事実論が事実上存在しない現状においては極めて困難であり,新たな方法論の開発が必要になっている。筆者自身は,事実と要件の間に媒介項ないしは中間項を設ける方法を模索しているが(たとえば,松澤伸「別居中の共同親権者による未成年者の略取行為と実質的違法性阻却」ジュリ1389号108頁以下(2009年)),不十分な段階にとどまっている。40)意思の連絡については,最近の包括的な研究として,内海朋子「共同正犯における『意思連絡』の意義について」亜細亜法学39巻2号91頁以下(2005年),同40巻2号73頁以下(2006年)があり,その内容は示唆に富むが,“連絡”の意義については,本稿で述べるようなかたちでは議論されていない。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)113②次に,被誘致者がその意思を受信する。③さらに,被誘致者が意思を受信したことを誘致者に伝える(場合によっては,そこに新たな提案を伴う場合もある)。意思の連絡必要説は,①~③まですべて必要と考え,意思の連絡不要説は,①のみを必要と考えてきたように思われる。しかし,意思の連絡必要説に立っても,③まで必要とする理由はないと思われる。すなわち,意思の連絡は,“片面的=発信”だけでは足りないが,“発信→受信”で足り,“双方向”でなくてよいと考えられるのである41)。つまり,相手がどう認識しているか分かっていなくても,被誘致者が誘致者の行為を認識してれば,問題なく共犯・共同正犯は成立すると考えられる(これは,片面的共犯ではなく,普通の共犯,共同正犯である)42)。このような“意思の連絡”の理解は,“連絡”という表現とも関連し,疑念を抱く人もいるかもしれない。しかし,相手が働きかけの存在を認識していれば,働きかける側が相手が認識していることを意識していなくても,意思の連絡はあったと考えてよいと思われる。たとえば,親分がメールで殺害を指示し,子分が即時に殺害を実行したような場合,子分が返信していなくても,意思の連絡はあったと考えてよいであろう。“連絡”という言葉に不必要にこだわり,双方向性が必要だと考える必要はないと思われる。これは,練馬事件判決などにあらわ れている,「犯罪遂行の合意」という表現からも,離れるものではない43)。既に,判例においても,最判平成15年5月1日刑集57巻5号507頁(スワット事件)や,最判平成19年11月14日刑集61巻8号757頁(廃棄物事件)において,そのような方向が明確にあらわれはじめているといえる。スワット事41)本誌106頁参照。42)なお,共同正犯における意思の連絡と共謀共同正犯における意思の連絡は同じか違うかということが問題となり得るが,同じと解さない理由はないように思われる。これを同じと解しつつ,もし,片面的共同正犯を肯定するなら,共謀共同正犯においても,受信(②のプロセス)さえ不要だということになるが,判例は,その段階までは踏み込んでいない。このような理解は,共謀共同正犯における最重要判例である練馬事件判決の判示内容と矛盾する。これに対して,これを同じと解しつつ,片面的共同正犯を否定するなら,共謀共同正犯においても受信(②のプロセス)が必要ということになり,片面的共同正犯を否定する古い判例も含め,現在の判例の状況と合致する。43)意思の連絡は,共犯性を基礎付けるものとしての心理的因果性で足りると考えられる(心理的因果性は,物理的因果性と共に,共同正犯の共犯性を基礎付ける。西田・前掲注8)366頁参照)。これに正犯性が加わったとき,共謀共同正犯が肯定されるのである。なお,正犯性の基礎付けは,判例や実務では,正犯意思とか,自己の犯罪といった表現であらわされるが,重要な役割,行為支配といった表現でいいかえてもよい。これらの学説の差異について不必要にこだわらなくてもよいことは,既に指摘したとおりである。
114Law&PracticeNo.04(2010)件や廃棄物事件は,意思の連絡の双方向性を強調すると,共謀が成立していることの理解が困難になるが,意思の連絡を上に述べたようなものとして考えると,自然に理解できる。以上のことから,事例Iおよび事例IIにおいて,“意思の連絡+正犯意思”は肯定でき,実務における“共謀”の認定の要件は満たされると考えられる。こうして,事例Iおよび事例IIについて,共謀共同正犯の成立が認められることが論証できたと思われる。なお,付言しておくと,以上の理解を前提とする限り,事例IIのような場合が現実に起きることは想定し難い。事例IIが成り立つには,被誘致者が規範的障害になっていること,つまり,指示の意味を理解して自らの意思で行動することが前提となるが,もし,被誘致者が指示の意味を理解し得る者であれば,通常,その時点で,その者が規範的障害となっていることを知り得ることになり,それ以降は,共謀共同正犯の故意の下での誘致となる,すなわち,通常の共謀共同正犯が成立することになるからである44)。つまり,それ以降は,錯誤を問題とすることなく,平成13年判決と同じ事案となるわけである。V むすびにかえて教唆犯が共謀共同正犯に解消される中で,判例は,今後,どのような方向に向かっていくのか。本稿の考えでは,判例は,行為共同説・因果的共犯論・片面的共同正犯肯定に向かって進んでいくことになると思われる。ただ,“意思の連絡”は,双方向でないにせよ,相手方の受信までは必要と思われるから(上44)昭和27年仙台高裁判決は,事例IIと同じ状況であるが,被誘致者が責任能力者であることだけをもって教唆犯の責任を認めているようにも読める。これは,間接正犯が極端従属形式を採用したときに生ずる処罰の間隙を埋めるためのび、縫策であると考えられていた時代の名残で,正犯者の責任の有無だけで間接正犯か教唆犯かを決定してしまったようにも思われる。現在の視点で見れば,被告人が,被誘致者を責任無能力者であると思っていたとしても,それだけでは不十分で,被告人が,その者を規範的障害となり得ない者として利用しようと考えていたかどうかを吟味するプロセスが必要である。
教唆犯と共謀共同正犯の一考察(松澤伸)115記②まで),完全な片面的共同正犯の成立を肯定するまでには,いま少し時間がかかるであろう45)。自己の犯罪説や重要な役割説に立つ限り,理論的には,共謀共同正犯と実行共同正犯とに差を設ける必要はない。形式的客観説を捨て去った以上,その残滓にとらわれる必要はなく(たとえば,準実行行為といった概念にこだわる必要はない),実行行為に過度の期待を寄せることには,理論的な根拠もないし,実際上の解決においても混乱を招く。むしろ,共同正犯を,いかに統一して理解するかを考えるべきである。意思の連絡を必要とする立場は,基本的には,犯罪共同説を出発点としているといえる。判例も,現在のところは,そのような基本的傾向がみられる(部分的犯罪共同説,意思の連絡必要説,片面的共同正犯否定説)。このような現状では,“教唆犯のためにリザーブされた領域”46)にも,多少の意味は存在するといえるかもしれない。①間接正犯と教唆犯の錯誤や,②過失犯に対する教唆犯は,その例ともされている。しかし,これらの事案についても,教唆犯として処理するのが望ましくないと考えるのであれば(既に縷々述べてきたように,自己の犯罪説を前提とすれば,教唆犯を共犯として処罰すること自体が不自然であろう),共謀共同正犯を肯定する方向へと赴くほかない。前者(①)については,本稿において論じたように,現状においても,共謀共同正犯と解するのがよいと考えられる。後者(②)は,次のような例で示される。Bは,Aの過失行為を利用するのではなく,Aに犯罪を犯す故意を生じさせるつもりで働きかけた。しかし,Aは故意をもたず,過失のまま犯罪を実行した。ここの場合,規範的障害のないものを利用しようとする故意がないので,間接正犯にはならない。そこで,過失犯に対する教唆犯として,独自の処罰領域が生じるとされる。確かに,このような場合については,“意思の連絡”を要件とした上で,間接正犯とならない場合,教唆犯にしかなりようがなく,そのような“リザーブ領域”の一つといえるのかもしれない。しかし,このような場合に教唆犯を認45)片面的共同正犯を肯定する場合は,意思の連絡は不要となる。但し,心理的因果性しか及んでいない場合には,受信(②のプロセス)まで必要となる。46)葛原ほか・前掲注20)283頁において用いられている表現であるが,もはや教唆犯の居場所がなくなっていることを象徴的に表現するもので,極めて示唆的である。
116Law&PracticeNo.04(2010)めるのは,理論的には分かりにくさを増すだけである(実際には,後者の事例では,間接正犯とならない場合はほとんど想定できないのであるが)。むしろ,理論的な分かりやすさを追求すれば,この場合は,背後者を共謀共同正犯とし,実行者を過失犯の共同正犯として処理するのが簡明である。そうなると ,共謀概念を修正するほかない。そうなれば,共犯の処罰根拠として因果的共犯論が理論的に最も優れていることも含めて考えると,将来は,判例も,共謀についても片面的な意思の連絡で足り,片面的共同正犯を肯定するという方向へ向かうと思われる。そして,最終的には,練馬事件判決を覆すことにならざるを得ない。ここに至り,“共謀共同正犯”という概念は,“実行行為を行わない共同正犯”という概念に発展的に解消されることになるであろう47)。