日本の皇室関係者が公州市に寄贈した武寧王陵の祭需品、10年以上行方不明のまま K■事件の始まり
2004年8月3日、当時の天皇のまたいとこに当たる朝香誠彦氏が公州の武寧王陵を訪れた。旧皇族としての非公式訪問だった。
随行員を含め3人の訪問団は王陵の内部に入り、武寧王に祭祀(さいし)をささげた。一般人の出入りが制限されている王陵内部が、一行のために開放された。朝香氏一行は焼香して菓子を祭物としてささげた後、皇室の礼法にのっとって三拝した。香炉と香、そして菓子は、一行が日本から持ってきたものだった。香炉は磁器、香は沈香で、皇室において数百年所蔵してきた香だという。
祭祀が済んだ後、朝香氏は「博物館や武寧王陵などに展示して、大勢の人が見ることができるようにしてほしい」と、香炉と沈香を公州市に寄贈し「帰国後、訪問の結果を天皇に細かく報告するつもり」と語った(2004年8月5日付ハンギョレ、同6日付朝鮮日報など)。公州市は、寄贈された香炉と沈香を武寧王陵展示館のガラスケースに収めて展示した。
■公州市が明かした顛末(てんまつ)
ところがその祭需品(祭祀用供物)が、ある日、跡形もなく消えてしまった。公州市は、香炉と香がいつ消えたのか、
盗難なのか紛失なのかすら把握できずにいる。以下は、記者の電話取材に応じた公州市文化財課の、失踪の過程に関する釈明だ。
「率直に言って、行方不明の事実は後になって知りました。展示改変の過程で、管理不十分により無くなったもののようです。
展示目録にも上げておらず、記録もなく、写真もありません。
武寧王陵展示館の展示改変の過程で事務室に置いていたようですが、その過程でなくなったようです。
展示館は模型を展示する空間なので、残念ですが収蔵庫もないんです。
展示品が本物なら、体系的に目録化して管理しますが、そうではない面がちょっとあるんです。
日本の寄贈品も、模型だろうと思って一緒に入れ替える際に無くなったんじゃないかと推測しています」
2019年7月16日、公州市ホームページの
「開かれた市長室:市長に望む」掲示板に「日本の天皇家から公州市に寄贈した物品は見つかりましたか?」
というタイトルの請願が載った。
「日本人にとって、彼らのルーツが韓国にあるという証拠かつ、歴史的な事件でもあるこの出来事において、
公州市に届けられた香炉と沈香がかなり以前に消えてしまったといいます。
(中略)当時の公州市関係者は、どこにあるのか分からないと、みんな叱られることばかり心配しているらしく口を閉ざしていました」
ー中略ー
■武寧王と天皇家の血縁
武寧王は西暦501年から523年まで百済を治めた王だ。『三国史記』によると、諱(いみな)は斯摩(しま)という。
『日本書紀』によると武寧王は、461年に蓋鹵(がいろ)王が弟の昆支と共に日本へ派遣した王妃が、
九州の各羅島(かからのしま)で生んだ子だという(『日本書紀』雄略天皇紀5年条、6月丙戌〈へいじゅつ〉朔〈さく〉)。
当時、百済と倭は王族間の交流を通して外交関係を結んでいた。『三国史記』『三国遺事』には武寧王の出生についての記録はない。
同じく日本の史書『続日本紀』には、このような記録がある。
すなわち、桓武天皇(737-806)の母親である皇太后の高野新笠(たかののにいがさ)は
百済武寧王の息子・純陀(じゅんだ)太子の子孫であり、百済の遠い祖先である都慕王(高句麗の東明王。朱蒙)は、
河伯の娘が太陽の精気に感応して生んだ子で、皇太后はまさにその子孫である(『続日本紀』巻40、延暦8年12月丙申)。
2001年12月23日に、当時の天皇は、68歳の天皇誕生日記念記者会見でこのように述べた。
「桓武天皇の生母は武寧王の子孫だと『続日本紀』に書いてあり、韓国との縁を感じる。武寧王の時代、五経博士が代々招かれた。武寧王の息子、聖王は日本に仏教を伝えたといわれている」。近代日本の天皇が初めて百済と日本皇室の関係を認めた発言だった。
この発言によって、3年後にまたいとこに当たる朝香誠彦氏が武寧王陵を訪れた。あえて意味を付与するならば、西暦660年の百済滅亡から1300年ぶりとなる。公州市庁のホームページに請願を載せた人物はこのようにつづった。「この品々が公州市の観光と、歴史性を証明する上でどれほど意味があるものであるか、分かっていらっしゃいますか?」。公州市側は、記者との電話で「警察への捜査依頼はしなかった」と明かした。
朴鍾仁(パク・チョンイン)先任記者