ひめゆりの塔 旧軍首脳陣は日本本土の防衛策として、現地沖縄人の犠牲など配慮することも無く、時間稼ぎとして沖縄戦を定義した。さらに方言使用の禁止(方言を使った住民が切り殺されている)など、規制を沖縄人に押し付けたり、住民を隠れ蓑にして、戦闘作戦を立てたり、役所から住民に手榴弾を配布したり、集団自決を強要したりした。足りない兵の補充を現地で根こそぎ動員(中学生くらいから60代の男子まで)して、十万人以上も現地人を見殺しにした。ここで、教員養成所の生徒を疎開させない事が、軍の意向を受け、職員会議で生徒の疎開をさせない方向で決定されるシーンがあるが、初めから沖縄人を捨石にしていたのだから。こんな非人道的な措置は、当時、当たり前であった。この異常な軍の意向は、東条英機(全日本国民の命を危険にさらしても、一億層玉砕を企てていた狂人右翼)達の思考傾向によるものである。 1945年3月23日、米艦隊は沖縄に対し、艦砲射撃を開始した。ここに、サイパンに次いで住民を兵士と同様に危険な状況に置く異常な戦闘が始まる。そして、彼女らの多くが、無意味に戦闘の犠牲になったり、全く無意味な自決をさせられたりして、無念な無駄死にをさせられた。 1945年4月1日、18万3千人の米軍は、沖縄本島、中部・西海岸一帯に、上陸を開始した。それに対し、日本軍は、現地召集した戦闘訓練も受けていない兵士含め11万人しかいなかった。その前の3月26日、慶良間列島では、住民が集団自決を強いられ、730人あまりが無駄死にさせられた。野戦病院という名の洞窟病院には、傷ついた兵士達は次々に惨めな死を遂げていった。 完全に追い詰められる前から、数々の特攻計画を考えていた軍トップ官僚達は、冷血非道の心をむき出しにして、次々に若者達を特攻(自爆攻撃)作戦で無駄死にさせていった。ここで、野戦病院を放棄する際に、傷病兵を次々に毒殺していった事は事実である。 究極の不潔・狂気が蔓延する野戦病院の状況がよく現れているシーンである。そして、究極の緊張状態で、女学生達のメンスもとまる異常な状況だった。ここで、軍上官が、女学生達が命がけで汲んで来た水の質に文句をつけ、再度危険な水くみに行かせるシーンがあるが、このような理不尽な事は、数々あったという。ここで、後藤久美子が演じる女学生が、病床で、「早く帰りたい」と言うのが、痛々しい。 傷病兵が、「これが人間のやる事か?」と言うシーンがあるが、実際、東条達トップ軍官僚達に、まともな人間としての感情は無い。ここで、「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と上官が言うシーンがあるが、これは、東条英機が戦陣訓の中に書いてある。これが、兵士達を、万歳突撃や無補給状態で飢え死にする状況に追い込んだ現況である。これを、一般人まで強要したのだから、一般人まで無数の死者を出した事は当然の帰結である。もっと簡単に「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」を説明すると、「勝っている時以外は、死になさい」と言う事である。本当に狂っている。 ここで、ある軍人が、自分達の身の安全を確保するために、住民を洞窟から追い出すシーンがあるが、これは実際に頻繁に起こっていた事実である。また、怒った翁が、沖縄方言を使ったために、切り捨てられるシーンがあるが、これも実際に数々起こった事件である。さらに、投降しようとする沖縄民間人を、日本軍兵士が切り殺す事件も頻発している。よく考えると、沖縄に配置された本土からきた日本兵士達と沖縄の人々は、共に日本国から捨てられた者同士で、絶対絶望の状況からいがみ合うようになったのは当然であろう。ただ、沖縄の人達にとって、本土から来た日本軍は、ただ、迷惑な存在だった事は事実であろう。 日本軍指令部は、5月27日、首里を放棄して、最南端の摩文仁へ撤退した。5月31日には、首里は陥落した。米軍は、南部へと進撃を開始した。南部一帯は、最後の激戦地になった。ガマ(洞窟)に身を潜めている女学生達が「米軍の捕虜になると、辱めを受け、戦車でひき殺されるのよ!」と言っている。これは、軍トップの作り話であり、それによって、自決という唯一の結論に至り、次々と一般人・非戦闘員達が集団自決していった。彼らは、米軍に殺されたのではなく、旧日本軍トップ・右翼官僚達に殺されたのである。 井原壕から一行が移動するシーンで、軍から解散命令が出る。つまり、勝手に行動してよいが、投降だけは許さないという事である。結果的には、勝手に野垂れ死にせよ!という事である。ここで、兵士達が切り込みに行くシーンがあるが、この自殺攻撃を白兵突撃という。機関銃陣地に対し走って行く愚かな行為で、こうして一般兵士達は次々に犬死させられていった。 軍人が泣き止まない女学生達を切り殺そうとするシーンがある。これも壕で良くあった事件である。また、米軍の警告を無視したために、毒ガスで次々に一般民が殺されていった。