特攻兵器震洋に起きた悲劇水上特攻艇震洋(船体はベニヤ板で、中古トラックのエンジンを動力にしていた)も、海軍が発明した特攻兵器の一つである。特攻兵111人が、無駄死にしたこの事件は、敗戦翌日昭和20年8月16日、高知県土佐清水市で起きた。元震洋艇隊長・田英夫氏がその特攻艇の欠点を述べている。敗戦までの一年間で、6200隻が製造された。日本各地だけでなく、アジア各地に配備された。そして、満足な成果をあげる事も無く、敗戦後各地で廃棄された。ところが、オーストラリアの戦争博物館に展示されている。そして、この大爆発に居合わせた神保さん(80歳)がその状況を説明している。彼によると、震洋の特攻兵は、元々、戦闘機のパイロット志願兵だったが、戦闘機不足で、彼らは艇震の乗組員として、転用された人達であった。 128震洋隊のあった高知県夜須町の町史に注目すべき記述がある。それによると、「もうすぐ占領軍が上陸してくるのではないか?」という不安で、町は一種の伊「パニック状態に陥っていた。それが、悲劇の引き金に?128震洋隊は8月16日夕刻、出撃体制に入っていた。そして、最終出撃体制に入っていた時、大爆発が起きた。たった一隻の震洋から、次々に火が移り、誘爆が起こって、大爆発に発展していった。しかし、上司の命令で、総員集合命令が出され、命を失った。上司の命令を無視した神保さん達は助かった。また、震洋は、沖縄とフィリピンに3部隊だけ配備されたが、残りは、船以外の戦闘や、輸送段階で壊滅している。ほぼゼロであるが、搭乗員は、2500人もの犠牲を出している。戦果はほぼゼロであった。その、田英夫さんのお話の中で、「僕の戦友が靖国で軍神として待っているとは到底思えない」と言った言葉が忘れられない。