フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての「3・11」こころの時代在日朝鮮人作家徐京植氏が福島を巡る。 南相馬市在住のスペイン思想研究者佐々木孝氏との対談。 福島の朝鮮学校の現状 生命そのものの基盤を破壊する“根こぎ”というキーワード ディアスポラ 「破局という現実が非現実的なものに思える 同心円的に遠ざかっていく想像力 離れると見えないけど離れないと見えない同心円のパラドックス 避難を拒否した老婆 国家に対してたった一人で対峙している 一人一人に国家とは何かを突きつけられた 日本社会は非常時になれば非人間的になる 法律というものは末端にくると非情なものになる 国民を守るものが一瞬で管理するものに変わる」 私は福島第一原発事故以降、数値データや 放射線とDNAという科学的知識とかばかりに目を向けていた。 もちろんそれも大切なのだが、 そもそも人生の基盤そのものを奪われるとはどういうことなのか という観点から考えたことはなかった。 そういう意味では色々なことを考えさせられる番組だった。 避難を拒否した老婆は、 国家に対してたった一人で対峙しているという解釈、 法律というものは末端にくると非情なものになる 国民を守るものが一瞬で管理するものに変わるという意見には、 考えさせられた。 「現実と超現実とが転倒した世界」 確かに原発周辺の現実はそのように眼前に実在する 原発事故は天災ではなく、人災なのであり、 原発事故で人生を“根こぎ”にされ ディアスポラとされたことへの 怒り、悲しみ、絶望にどのくらい想いを馳せているか どのくらい自分のものとして受け止めているか