東条英機と関東軍と満州統治とアヘン売買の密接な関係満州政府は、その運営資金に阿片・コカインなどのドラッグ売買による利益を収入源の一部にしていた。里美甫はその中心人物である。日本にそれを裏付ける資料が出てきた。元満州官僚がのこした宏済善堂(アヘン販売用偽善団体)に関する文章で、李鳴(里美甫)と共に8人の中国人麻薬商人の名が記してある。興亜院(総裁が東条英機首相、副総裁が陸軍、海軍大臣)を使って中国でのアヘン生産を一手に管理していた。それを裏付ける資料が「支那阿片需給会議内部資料、昭和17年8月」ある。出席者は中国統治に関する全ての省庁の官僚であった。そこで「大東亜戦争遂行の鍵は、阿片製作だと記してある。」昭和16年にはアヘンの売り上げが3億元(南京の傀儡政権の1年分の国家予算に匹敵)にまで達していた。里美に膨大なアヘンの取引を任せたのは、関東軍・満州政府だったのである。ただ、里美は日本政府の関与を隠す為のカモフラージュであったのだ。しかし、米国はアヘン王・里美の動きを継続調査していた。また、関東軍特務機関員だった木村氏の証言もそれを裏付けている。彼は、特務機関の金庫には資金と官営の工場で生産された麻薬が収納されていたと証言している。活動資金が少なくなると、阿片を売って資金を得ていた。阿片は特務機関活動の主な資金だった。(キャンディー大の阿片10粒が一月分の給料に相当したという。満州国指定の四千件にのぼる鴉片所(アヘンショ)で堂々と販売し(表向きに、阿片中毒患者の治療用という事になっていた)、その収入は政府のものになっていたという。昭和12年の満州国の記録によると、中国人阿片中毒患者数は百十万人にのぼるという。実際ハルピンでは、年間二千人もの死体が路上に放置されていたと満州国刑務総局の内部資料(昭和16年)に記録されている。。その国際法違法活動の中心・関東軍に密接に販売に関わった会社が大倉財閥の大蒙公司で、軍事物資と共に阿片販売を一手に引き受けていた。その栽培増産計画に指定されたのはチャハル盟9県野農家で、三万ヘクタールの耕地に従事者は約百万人だった。関東軍の阿片財源取り扱いに関して指導的立場にあったのは、関東軍参謀長・東条英機と第五師団長・板垣征四郎であった。’蒙境方面政治指導重要案件綴’に東条英機の署名入りの文書が残っている。そこでは、「財源捻出のとに、敵に奪われないように!」と記している。その阿片販売行為が、中国国民党の対日宣伝に使われ、日本は国際的に不利な立場に追い込まれていった。事実、米国は昭和12年に、満州国がその奉天で専売の為の75kgから100kgのヘロイン・モルヒネが生産され、過去5年間で一億三千万元を売り上げていた事を突き止めていた。阿片による収益は関東軍の主な兵器購入の主要な収入源だったのである。最終的には、昭和13年の陸軍省の”支受大日記”に、日本国として、敵からの押収品も含めて33トン(現代の末端価格で百十億円相当)もの阿片販売に手を染めていたのである。それは、拡大する中国戦線での戦費増大のため、戦費が増大するにつれて、アヘン収入依存度が上がっていったのだろう。昭和13年次に戦費の国家予算に占める割合が7割を超えていたのである。日本が中国の占領地域を拡大するにつれて、アヘンがそこに蔓延していった。南京では、市民40万人中5万人がアヘン・ヘロイン中毒患者だったという。ソ連侵攻後、関東軍本部は退却資金に、阿片を持ち出し使った。最後の関東軍の仕事は、原参謀によって行われた。関東軍本部にあった阿片の後始末であった。徹夜で穴を掘り、大部分を埋めた。最後に、里美は、裁判所で「我々の戦争は阿片なしにはできなかった」と言っている。