ゼロ戦・設計者が見た悲劇どんな優秀な発明品にも欠陥がある。太平洋戦争開始時点では、ゼロ戦は間違いなく世界一の水準を持った戦闘機であったであろう。しかし、トップを常に維持するためには、常に、改良が必須であるが、海軍トップ官僚がその障壁となり、性能向上がなされなかったゼロ戦は、最後にマリアナ沖海鮮で、アメリカ機に敗れ去った。ゼロ戦の開発者は、堀越二郎・曽根嘉年の両氏であった。開発は昭和13年から始まった。海軍からゼロ戦に求められた開発目標は、時速500km、航続距離2000km以上であった。戦闘機隊長・源田実は運動性能に主眼を置いた。一方、飛行実権部の柴田武雄中将は、スピードの航続距離に主眼を置いた。当時の日本のエンジン性能は950馬力で、世界水準の8割程度であった。これが、開発者達を苦しめた。よって、機体の軽量化が最大の課題となり、それが、機体の脆弱化を招き、時速500kmを越えると、機体が分解してしまう欠陥を招いてしまった。 海軍の強度不足対策は、不十分で、急降下速度は、当初予定の900kmから650kmへ性能劣化をすることになった。この誤った決断が、ゼロ戦の戦闘能力を著しく劣化させ、米軍機とドッグファイトで完敗を喫する運命を決定した。その後、日本は1100馬力のエンジンを開発した。しかし、海軍トップ官僚に、物理の知識が乏しく、このエンジン能力向上をゼロ戦の性能向上に結ぶつける事ができなかった。よりによって、翼の形を変えてしまった為に、空気抵抗が大きくなり、航続距離が著しく劣化(-400km)したのであった。そして、ガダルカナル奪回に失敗。2万人以上の死傷者・餓死者を出した。片桐英吉航空本部長辞任。 島田繁太郎大将は、開発失敗の責任をウヤムヤにしようとした。これが、日本官僚の最大の欠点である。官僚の辞書に、「責任」という文字は無いと言われるゆえんであり、この傾向は戦後も尚脈々と続いている。そして、決定的なゼロ戦の弱点は、昭和17年夏、アリュウシャン列島で米軍の手に渡った事から、明らかにされる事となる。燃料タンク・パイロットを守るシステムが無く、急降下速度が極度に低い事(600km以下)であった。これを米軍は巧みに利用し、F6F戦闘機(急降下速度900km)を開発した。そして、弱点をつかれ、パイロットや燃料タンクを狙われて、ゼロ戦は次々に撃墜されていった。昭和18年4月、山本五十六連合艦隊司令長官がラバウル視察。そこで、航空戦に対する研究会が開かれた。そこには、防弾に対するパイロット達の切実な要求が記されていた。曽根氏は、B17の防御システムを元に、防弾に対する提案が行われた。しかし、源田実はその案を一蹴。その後も、人命軽視の攻撃力向上だけを目指した改良が進んでいった。これが、最後には、パイロット不足を招き、悲惨な結果を生んだ。しかし、この判断を誤った源田実は、多くのパイロットの生命を犠牲にしておきながら、戦後も自衛隊員として生き抜き、最後は自民党の参議院議員になった。 人命軽視の日本と、人命重視のアメリカとの差が、より大きな戦力の差を生み、マリアナ沖海戦日本の大敗北に繋がった。ここに、日本海軍は完全に制空権を失う事になった。航空機の性能の差と、ベテランパイロット喪失が決定的な日米差を生んだのであった。これで、サイパンを失い、米軍による日本本土爆撃をを可能にさせてしまった。ある意味では、この日本の敗戦は、日本軍官僚達の無責任体質・劣悪さによる事が大きいのではないかと言う結論が導かれるのではないか。そして、戦後も高級官僚を続けた奴等は、更に、歴史的事実の改ざんまでやり遂げた。これは、人類史上まれに見る愚行である。 そして、海軍は組織的特攻を遂行し、自分達の失敗を、さらに劣悪な特攻戦法で補おうとした。源田実は、第一回目の特攻作戦の報告電報を、実行前に作成していた特攻推進メンバーの一人であった。そして、戦後も、死ぬまで「特攻は各パイロットの志願が行われた」と、嘘を説き続けた。最後に、ゼロ戦設計者一人は、それが特攻に使われた事に遺憾の意を表している。「ゼロ戦を通じてわが国の過去を顧みる時、自らの有する武器が優秀なればなるほど、それを統御するより高い道義心と科学精神とを必要とする事を教えているように思われる。・・・堀越二郎」