東京大空襲60年目の被災地図この編では、犠牲者の証言を基に、被災者の行動を線で結んで、全体的な行動を捉えようとしている。また、被災者達の記憶を基に絵で被災状況を表現しようとしている。昭和20年3月9日は晴天で、数日間は爆撃が無かったので、街は平穏だった。しかし0時27分から焼夷弾爆撃が2時間53分も続いた。ひたすら街を焼き尽く民間人を狙った無差別攻撃だった。最初に爆撃を受けた深川区では、3万人も死亡した。3人の犠牲を出した築山さんが見せた773人の犠牲者の名前が書いてある巻物には目を見張るものがある。その多くの人達はお防空壕の中で亡くなったものと考えられる。その防空壕の写真が出ているが、どう見てもお粗末過ぎる。 第二編では、防空壕から出た築山さんは生き延び、防空壕に非難し続けた人達は死亡した。彼の家族は鉄道沿線にある空き地へ避難した。そこにある防空壕に彼の母と妹を入れてもらって、築山さんと父親は更に逃げ続けた。それがこの家族の生死を分けた。ここでも、政府の防空壕神話を信じたものは救われなかった。更に、避難所になっていた国民学校に逃げ込んだ多くの市民も死亡した。しかし、赤羽さんはプールに飛び込んで難を逃れた。熱風が後者の窓を突き破って校舎の中へ侵入したのだった。 第三編では、避難して逃げ込んだプールの中で多くの人が溺れ死んだ。赤羽さんの家族は死んでしまった。妹さんはそのプールに中で溺死していた。一方、政府は「焼夷弾は消せる」と嘘をこき続けた。ここでは、焼夷弾の構造が詳しく説明されている。この東京焦土作戦は米カーチス・ルメイの作戦だった。愚かにも、戦後、日本政府はこの殺人鬼に勲一等旭日章を授与している。愚か過ぎてあきれてしまう。ちなみに、その時の防衛庁長官は、小泉純一郎の父・「小泉純也」だった。そして、その発起人は、特攻作戦を遂行し、多くの若者を無駄死にさせたのに、責任を取るどころか、戦後直ぐ自衛隊設立に参加し、自衛隊の航空幕僚長まで出世し、自民党参議院議員まで出世した源田実だった。戦後の日本がおかしくなたのは、こいつら無責任軍官僚達のせいである。その究極の異常が田母神氏の出現であろう! 第四編では、多くの人達が焼死した言問橋での惨劇が語られている。河の両側から避難民が身動きできなくなった所に、橋の両側から数百度の熱波が吹き込んでほとんどの人達が焼死した。真冬の気温2℃の極寒の中、河に橋から大ジャンプした一握りの人達だけが助かった。その中に、カマダトムさんがいた。冷たい河のなかで、大八車に乗っている人達を見て、そこまで行って、トムさんとお子さんは乗せてもらったが、彼女の主人は冷たい河の中で凍死した。 第五編では、本所病院の患者避難について述べている。よりによって、爆撃区域へ避難して行ったのである。一方、上空のB29の搭乗員は乱気流に悩まされていた。地上は猛火の地獄だったのである。焼け野が原の下町の写真があるが、目を見張るものがある。41平方キロメートルも焼失し、10万人焼死した。土手や川面に多くの死体があったという。しかし、政府は犠牲者数に言及しなかった。 第六篇では、大空襲は、名古屋、大阪、神戸、広島、長崎へと拡大していき、更に40万人以上の一般市民の犠牲者を出す事となった。狂った東条英樹達軍トップ官僚達が、自分達の生き残りだけをひたすら追求した亡国策の愚考の結果である。