沖縄戦で敵味方に分かれた兄弟の運命アメリカ兵日系語学兵の存在が明らかになる。東江盛勇さん(当時26歳)は、その一人だった。弟の東江康治さん(16歳)は根こそぎ動因された現地召集の少年兵(鉄血勤皇隊員)だった。根こそぎ動員とは、沖縄戦前後に15歳未満から65歳以上まで戦闘員として徴用されたことを言うが、義勇兵役法成立以前の防衛召集によるものであり、老人から子どもまでを陣地構築などの作業に狩り出し、さらには、兵員の不足を補うために、「防衛隊」 ・ 「学徒隊」 ・ 「義勇隊」 などと称して召集し、戦闘への参加を強要された。当時の右翼軍幹部達は、沖縄人を二級国民として、人権を完全に軽視・無視していた。1944年3月、日本政府・軍部は、沖縄に第32軍をつくり、沖縄戦への備えを始めた。この第32軍は 「沖縄守備軍」 とも呼ばれていた。 けれども、彼らのほんとうの任務は「沖縄を守る」ことではなかったのでだ。 第32軍の役目は、沖縄を戦場にして、ここに一日でも長くアメリカ軍を足止めするこだった。 たとえ沖縄を焦土と化しても、戦闘を長期化させて時間をかせぎ、その間に本土では、兵力の動員や陣地構築や武器・食糧の集積を行なうこと、それが沖縄での戦いの目的だった。 だから、沖縄戦は、このような意図の下に始められたので、沖縄の一般住民の犠牲や苦痛は、初めから考慮されていない。 アメリカ軍は、1045年4月1日に沖縄侵攻開始した。康治さんは、通っていた中学校では、卒業式を取り止めにし、全生徒を戦闘に召集した。彼は、名護市のヤンバルの森で偵察や、物資の運搬に従事していた。4月14日、米軍と遭遇し、銃撃戦となり、肋骨が数本折れた重症を負った。その2ヵ月後、彼の兄が日系米兵(SECRET WEAPON・対日本戦の秘密兵器とアメリカは呼んでいる)として沖縄に現れた。 今もアメリカ在住である兄の盛勇さんの自宅インタビューがある。アメリカ生まれの彼は、3歳の時、日本に戻ったが、再び生活苦で渡米。そして、米軍に入隊し、日系語学兵になったと言う。2010年6月、彼は、沖縄の慰霊祭に参加する為に帰国した。彼は、インタビューで、沖縄戦に参加した理由を述べている。サイパンで多くの民間人が崖から飛び降り自殺をしたというニュースを聞き、日本政府・軍が全く民間人を保護していない事に衝撃受け、同郷人を助けに行こうと決意したと言う。彼が、沖縄に到着したとき、家族は、ヤンバルの森に避難していた。弟が重症を負っていると言う事を聞いていた彼は、家族を捜査しようと思っていた。6月19日見覚えのある少女に出会い、家族の居場所を知る。 盛勇さんが捜索に来ていることを知った父・盛長さんは、彼に会う為に、危険だと言う家族の反対を押し切って山を降りた。勇気ある愛にあふれた尊敬に値する偉大な父だった。山を焼き払う米軍の計画を知っていた盛勇さんは、彼の父と山へ急いだ。そして、弟・康治さん再会。投降を呼びかける兄に、彼は拒否をした。彼は、日本兵になりきっていた。遂に、家族の説得応じて彼は下山した。その二日後、沖縄戦は終結した。盛勇さんはアメリカに戻り、庭師として、生活していった。一方、弟の康治さんは、教育者になり、名護大学を設立し、初代学長を勤めた。 盛勇さんが、アイデンティティーとして、ウチナンチュ(沖縄人)と言う言葉を使った。それが日本人と言う言葉でなかった事は、それが何を意味しているかを我々は深く考えなくてはならない。