召集令状の実態旧日本軍トップ官僚達の徴兵システムと責任放棄 第一篇では、召集令状(赤紙)1枚で兵士にさせられ、死んでいったおおくの兵士の遺骨収集のシーンが印象に残る。また、召集令状をもらって出征する実際のシーンも印象深い。フィリピンでは、50万人/60万人が戦死している。軍が無責任にも召集令状の記録を遺棄させたからである。しかし、この主人公・西邑仁平は勇敢にも、命令に背き、資料を後世に残した。 第二編では、昭和12年に”兵事係り”になった仁平さんの仕事は、赤紙の配達、村人が軍隊に入る際に付き添い、徴兵検査での世話役、戦死を家族に伝えるなどであった。”兵事係り”は全国の役場に一人ずついた。警察から直接赤紙を受け取っていた。軍隊への入隊ルートは三つだった。第一は、志願して入隊する”志願兵”制度。第二は、20以上の徴兵検査で優良な甲、乙種合格した者がなる”現役兵”制度。第三は、徴兵検査で合格しなかった不健康な者を無理やり兵隊にする”赤紙”制度。昭和12年、関東軍が中国戦線を全国に広げた為に大量の兵隊が必要になり、不健康な国民を片っ端から赤紙で、徴兵した。 第三編では、徴兵検査や出征の様子が再現されている。兵事書類に、各家族の状態が密かに調べられていた。この事から、当時の日本は、全ての個人情報を操る非人道独裁国家であった事が分かる。また、赤紙の発行から配達までのルートが明らかにされている事が興味深い。(ア)陸軍参謀本部から全国の地方師団へ必要な人数調達の指令が届く。(イ)師団から連帯区指令部が個人を選定し、赤紙を発行する。(ウ)赤紙は地方警察に運ばれ、地方役場の兵事係に届けられる。そして、兵事係から個人に届けられる。陸軍が中央政府の意向を無視して勝手にアヘン販売で得たぢくじ資金を持って中国戦線を拡大していった。それに伴って、赤紙乱発が激しくなった。 第四編では、赤紙に氏名を書き入れる部屋が紹介されている。いいなずけの名前を赤紙に書いた佐々木さんの痛々しい経験が語られている。 第五編では、兵事係りの仁平さんが村人が次々に戦死していき、精神的に追い詰められていく様子が痛々しい。 第六編では、戦地から二回も生還した同僚や兄弟を出征させた家族に更に赤紙を渡すシーンが痛々しい。大郷村から出征し生還した室庄衛さんが戦死していく同僚の断末悪の「お母さん」という言葉を言ったシーンを回顧するシーンが悲しい。彼は、証言を残す意思を示している。また、テニアンで95%の兵士(ほとんどが餓死と自決・集団自殺攻撃=白兵突撃で無駄死に)が戦死しているカロリナス大地の洞窟内に残された壁に描かれた遺書が今も残っている。 第七編では、叔父がパイロットだった遺族が玉砕の島・テニアンを訪問し、叔父の鷹部隊が潜んでいた洞窟を発見!ここで、95%も兵士が戦闘だけで死亡する事は極まれで、集団自殺命令と餓死によるものだった事を忘れてはならない。南方で哀れな死に方した兵士達の手記には、軍トップに対する恨みつらみが記されている。 第八編では、二度も兵役から生還した仁平さんの同僚が戦死してしまう。仁平さんは、兵隊を自分小村から150人以上も戦場に送り出した責任の重さから兵事係りを辞任したいと上司に申し出る。ここで、息子を五人も出征させた家族の苦悩が表現されている 第九編では、大郷村から海軍予科練に志願した中川さんが画面に登場。ここでは、海軍が様々な特攻兵器を開発してきた事が紹介されている。これは、特攻が国策だった事を裏付けている。特攻が表向き志願制、実は強制命令だった事が伺える。広島に落ちた原爆で、大郷村から出兵した兵士が爆死。被爆した軍刀がグニャグニャになっていることに驚嘆!そして、軍から召集礼状関係の書類の廃棄命令が出る。 第十編では、仁平さんが、勇気を持って、理不尽な軍命令を無視し、大郷村から出征した兵士達の情報を全て家に持ち込む。これが、後に高い評価を受ける歴史的遺産・赤紙の保存である。このなかで、仁平さんが戦死した同郷人に対し、「みんな、もっとやりたい事があったやろ!無念やったろう!戦争の為に生まれたんじゃない!・・・」と泣きながら保存作業するシーンに、仁平さんの温かい人間性が感じられる。 第十一篇では、息子の帰りを待ちわびる母の姿が痛々しい。こんな光景は日本全国どこでもあった。舞鶴の「岸壁の母」がその一つである。寺田さんの5人兄達が出征し、3人が帰ってこなかった。お母さんは、死ぬまで祈り続けたという。また、八木守三さんの3人の子供たちは、年老いても尚一緒に生活できなかったお父さんの影を追い続けている。最後に、仁平さんが、軍の命令に背いて兵士関係の書類を残した理由を明瞭に述べている。そこに彼の素朴で力強い哲学がある。 第十二編では、兵事係をさせられた仁平さんが今も戦死していった同郷人に対し、言い知れぬ悲しみを抱き続けている事が分かり、痛々しい。